Coyote コヨーテ
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編集長日記新井敏記 連載「ブッキィッシュな国のロビンソンたち」
第12回

アパラチアへの夢

 先日片岡義男にケイジャン料理に誘われた。
 代々木にあるその店は知る人ぞ知る「ひつじ屋」という所なのだ。クロアチアや南米の赤ワインを出し、タンジールの旅人が好んだ包み揚げなど、無国籍な料理が並ぶ、常連を相手にするために、過剰なサービスもなく心落ち着いて料理を楽しめる。旅人が最後に食べたくなる料理店だと片岡義男が言うのを自家製のパンを頬張りながら聞いていた。この店を知っていると友人に誇れる、ささやかだけと役に立つ、そのような気分を満喫できる。路地の一画にひっそりとある、しかもビルの二階。僕は彼にどうしてこの店を知ったのかと訊ねた。
「友人の佐藤秀明が、この近くに事務所を借りていたので、それで」 と彼は満足したように笑った。
「佐藤がフラッと入って美味かったので、次に一緒に来て、それから僕は常連になった」
「佐藤といえば、加藤君と今度一緒に会わない」
「佐藤さん? 加藤さん? どっちですか」
 僕が訊いた。
「加藤君の方。彼から連絡が来て会わなくちゃいけないんだ」
彼の物言いが何かひっかかった。余儀ない約束のように思った。彼はデザートの焼きバナナにアイスがのったデザ―トを一気に食べ終え、口を再び開く。
「一緒にまたここで会わないか」
僕は彼の顔を見やった。
「今度彼はアパラチア山脈を歩くと言うんだ」
「加藤さんって、作家の加藤則芳さんですか?」
「そう、君も昔会ったことがあるでしょう」
「昔?ですか。むしろ最近会いましたよ。この四月からアパラチアン・トレイルを半年間かけて歩くということで会いました。『コヨーテ』でも何か協力してほしいということで、いくつかスポンサーを探していますが」
「あ、そうか、それならなおさら一緒に会おうよ」
「片岡さんはどういう知り合いですか?」
 僕が訊ねた。
「彼がまだ角川書店の編集者だった頃かな。その後彼の八ヶ岳のペンションにも行った」
「加藤さんはペンションもやっていたんですか?」
 僕が言った。
「そう」
彼が頷いた。
「行ったことあるでしょう。『ドンキーハウス』」
僕は頭の中でそのペンションの名前を何度もリフした。そしてその名前を彫った木の看板が浮かんできた。
「『ドンキーハウス』ってきったないセントバーナード犬がいたところですか……。思いだしました。強い奥さんがいたところ。そうそう編集者の脱サラでペンションを始めたということで友人に連れられて行きました。そうですよね、確か片岡さんの紹介だった」
 そのペンションは八ヶ岳の富士見高原にあった。朝食のパンが美味しかった記憶がある。何しろ奥さんの手作り料理が自慢だった。
「そうね、でも離婚してしまったんだ。加藤君」
 彼がボソッと言った。
「ペンションもどこかの企業に売ってしまったらしい。研修所として今は使われていると聞いたよ」
 ペンションの前の道を沢伝いに下っていくときれいな川が流れていて、そこでイワナを釣った記憶がある。それを持ち帰って奥さんに料理してくださいと言うと、もう今日の献立は決まっていると嫌な顔をされたことも思いだした。友人によるとペンションの仕事はほとんど過酷で朝から晩まで働き尽くめだと言う。朝泊まり客に食事を出して、十時にチェックアウトすると、すぐに部屋を掃除。次に客が午後にやってくるほんの数時間が貴重なプライベートな時間なのだ。いかに速やかに客を追い出せるか。恋人同士はなかなかチェックアウトしないし、部屋が汚れると奥さんが嫌っていたのを思いだす。なにしろ不機嫌だった印象が残っている。ペンションに滞在している間、犬は散歩することなく、欲求不満を吠えることで解消しているようだった。よく吠える大型犬は珍しいと思ったものだ。
「でもあのペンション、コーヒーは美味しかった記憶がありますね」
僕が言った。
「なんだか気を遣って疲れるペンションだったな」
彼が笑った。
「でも景色はよかった。清里から歩くと二時間ぐらいかな、ちょうどいい散歩コースだった」
ペンションのオーナーとトレイルの加藤さんが同一人物とはまだ信じられなかった。
「そうね、風貌がその頃は髭をはやして怪しかったしね、今はすっきりしている」
「そうかもしれません。離婚したんですか」
「そう、彼は何もしなかったからね」
 アメリカ合衆国の東部地域、ジョージア州スプリング・マウンテンからメイン州マウント・カタディンまでおよそ2160マイル、約3450キロ、14の州に渡るアパラチアン山脈を一本のトレイルが貫いている。このトレイルはアメリカ文化の源泉に触れるものとして、多くのバックパッカーにとって憧れの道なのだ。独立戦争、南北戦争の戦いの跡があり、インディアンの居留地をはじめ、歴史的な遺跡も内包されている。今年この道を約半年以上かけて歩くという男がいる。それがかつてのペンションのオーナー加藤則芳さんだ。 彼がなぜ歩くのか、改めて訊いてみたいと思った。
「だから一緒に会おう」
また片岡義男が帰りしなに僕に言った。