Coyote コヨーテ
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編集長日記新井敏記 連載「ブッキィッシュな国のロビンソンたち」
第13回

薬膳カレーの昼食

 梅を見に根津神社に行こうと思った。最寄りの地下鉄白山駅で下車、その道すがら薬膳カレーという看板が眼に入り、珍しいので食べてみようと思った。カウンターだけの丸見えのキッチンの小さな店、ランチタイムということもあって、メニューはビーフと野菜のみということ、僕はビーフを選んだ。店の中を見回すと。カウンターにはラッキョと福神漬けという定番の薬味が置いてあり、どこにでもあるカレー屋の雰囲気だった。ただ店内のBGMは懐かしい歌謡曲が流れていた。高橋真梨子の「ジョニーへの伝言」。僕以外にカウンターの客は学生風の男と老婆が隣り合わせに座っていた。
 百円を別に出すとコーヒーが飲めるとキッチン脇の黒板に書いてあった。水代わりに差し出されたのはミントティだった。僕は持参した本を開こうとしたときにカウンターの二人の話し声が聴こえた。ここでは老婆♀をと学生風の男を♂としよう。♀は少し枯れて声のトーンが1オクターブ高い。♂は花粉症がひどいのか鼻をむずむずならしており、囁くような声の持ち主だった。
♀「あなたもいくつになったの?」
♂「二十七歳です」
♀「あら」
少しびっくりして続ける。
「だったらもっとしっかりしなくちゃ。すぐに働くのを辞めちゃダメでしょう」
その物言いは懐かしい東京弁を聞くようだった。彼女はさらに一呼吸置くと続ける。
「あなたの向かいの部屋の東大の石川さん、就職が決まったらしいわよ。この末に出て行くって」
♂「そうですか……」
♀の言葉は元気づけるどころか、彼の意気をより消沈させていく。
♀「仕事しないで部屋でゴロゴロしているのはよくないわ。仕事をコロコロ変えるのもよくないわ。何か働く口を見つけないと。ご両親も心配でしょう」
♂「すみません」
♀「働いたことはあるんでしょう」
♂「はい。大工のようなことはやりました」
学生風の男はポケットティッシュを取り出して鼻を一噛み。
「でも先輩に殴られてばかりで、嫌になってやめました。親方には集金袋で叩かれたこともあります」
♀「ミスしたの? どこの社会でもいじめはあるし、早く仕事を覚えて見返してやればいいじゃない。このカレー屋さんにも昔三号室に住んでいた川田さんという方が迷惑をおかけしてしまって、ずっと来れなかったから、今日はいい機会だと思ってあなたを誘ったのよ」
♂「川田さんという方が何をしたんですか?」
♀「少し働いてすぐにやめてしまったのよ」
♀はそう言うとキッチンで作業するマスターに「本当にごめんなさいね」と頭を下げた。二人の会話はこの小さな店では筒抜けになっていて、マスターも「大丈夫ですよ」とすぐに応えた。
♂「あの…」
♀「あの、なあーに?」
♂「僕の隣の女の人はどういう方なんですか? ときどき廊下ですれ違うのですが」
♀「田代さんね? 親子よ。お母さんは看護婦さんで、娘さんは確か中学生かな。あら今年高校受験かもしれない。何も言って来ないところを見るとダメだったのかな。まだ発表になっていないかもしれないわ。いい人よ、もう五年以上いるわね。あなたも妹さんといっしょに住むといいのに。妹さんはどこに住んでいるの?」
♂「埼玉です。今アルバイトしながら大検を取ろうとしているんです」
♀「偉いじゃない」
二人の前にカレーが差し出された。
♀「あなたごはん取って。私、こんなに食べられないから」
♀は♂にごはんをすくって渡す。
♀「若いんだからいっぱい食べないと」
♂「ありがとうございます」
♀「今からやっても遅くはないわ。私たちは何もできなかったのよ。あんなこともやっておけばよかった、こんなこともやっておけばよかったと思うことばかり」 
♂は不思議そうな顔で♀の表情を覗いた。
♀「戦争よ。60年前の戦争」
♂は不思議そうな顔をした。♀は呆れたのか、それ以上は何も言わなかった。
♀「海の向こうでもこちらでも戦争がはじまっていたのよ」
♀がカタカタ音を立てながらカレーを食べた。そして食べ終わると「おいくら?」とマスターに言う。「1786円です」とマスターが答える。
♀「本当にその節は迷惑をおかけしました」
そう言うと♀は深々と頭を下げた。「いえいえ」とマスターも頭を下げた。♂はまだ黙々とカレーを食べている。
♀「ここはいいわ。そうね、あと一週間時間をあげるからせめて一月分の家賃は払ってくださいね」
店のBGMは「桃色吐息」に変った。咲かせてという願いは今の季節にぴったりで、学生風の彼の可笑しいくらいに深い溜め息に重なった。梅を見ずに桃を見た僕は、老婆の後をつけてそのアパートを見てみたいと思った。