新井敏記 連載「ブッキィッシュな国のロビンソンたち」 |
第六回
ブレッソンに捧げる一日 アラキ・カルティエ=ブレッソン by 荒木経惟
8月3日、フランスの南東部のセレストにある別荘で、写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンが亡くなったというニュースが流れた。95歳だった。
1908年パリ郊外のシャントルー生まれのブレッソンはアフリカへ行った20代前半に写真にめざめ、第二次世界大戦にはドイツのレジスタンス運動に参加、戦後、1947年、ロバート・キャパらと写真家集団の「マグナム・フォト」の設立メンバーの一人だった。
「ブレッソンが亡くなったね」
荒木経惟が言った。『去年の夏』という写真集を来年出版しようと、今夏、荒木は東京を勢力的に撮っていたが、7日の午後は、ブレッソンに捧げる一日とした。ブレッソンだったら東京をどう撮るかという一点に、ブレッソンに捧げるテーマがあると僕は思った。
ブレッソンの写真は、1952年『決定的瞬間』という作品集で多くの写真家に影響を与えていった。「決定的瞬間」という言葉に象徴される「アンティミスト」内面派反抗と言われたように、一瞬のうちに人物の表情や、風景をとらえていった。そのスタイルには荒木も影響を受けたものだった。実際65年、荒木は「アラキ・カルチェ・ブレッソン」という作品を残している。その中で荒木はブレッソンの『決定的瞬間』を複写して自分の空気感とした。向こう側とこちら側の境界をなくすことが荒木の単純なブレッソンへのオマージュだった。
ならばブレッソンの死に際して、どのようなオマージュを荒木は披露するのか。
撮影開始の場所として、荒木は新宿のパーク・ハイアット・ホテルの40階のコーヒーラウンジを選んだ。ラウンジから眼下に広がる東京の風景を眺め、初めてどこを撮るか決めていくというのが、今日の趣向となっている。待ち合わせは午後2時、披露宴の客や泊まり客、高層の眺めを楽しむ恋人たちがラウンジにいた。北側の席をとると、秩父連山は見えず、少しガスっているのを荒木は嘆いた。そして西側に回ると
「富士山の見えない東京もいい、これで夕立でもくれば、撮影日和ですね」
と、一人ごちた。
「ブレッソンに敬意を表して、今日は、ライカ一台で撮る」
そう言うと荒木はM6をテーブルにおいた。35ミリのレンズ、荒木は広角気味で今日一日東京を見ていくのだ。
「アイスコーヒーを大盛り」
パーク・ハイアットでの荒木のいつものオーダーだった。ググイと大きなグラス半分まで呑み干すと、荒木は言った。
「やっぱり中央公園から始まるな」
40階からの西新宿を俯瞰して、最初のシャターを切ると、荒木が言う。
「4丁目から5丁目あたりが好きなんだな」
荒木は果たしてブレッソンの影響をどこまで受けているのだろうか。彼の口からアッジェは語られても、ブレッソンの名前をここ10年積極的に聞いたことはなかった。
「しかし……」と荒木が言う。
「ブレッソンのポートレートが好きだった。サルトルやカミュ、シャネル、マチス、中でも通りの向こうから雨でずぶぬれになってやってくるジャコメッティの写真は好きだった。人を撮るということはこういうことだと思った」
荒木はそう言うと輝いたパリの50年代をふと東京に重ねた。『東京ラッキーホール』の時代の東京の猥雑な気配が喪失していると言う。今よりも魅力的な時代の夏、パリもそうだったように東京にも、そんな幸福な偶然があふれていた。
「私は路地で偶然出会ったおばあちゃんやおじいちゃんを撮ります」
今日一日、東京はレフにあたったような光で、路地は淡い影が曳かれる。 |
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