Coyote コヨーテ
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編集長日記新井敏記 連載「ブッキィッシュな国のロビンソンたち」
第8回

青春18切符
湘南電車

 8月最終の土曜日、早朝、品川駅から鎌倉に向かおうと思った。ホームに掲示された横須賀線の時刻表を見ると、鎌倉方面の下りの列車は行ったばかりで、次の列車まで15分ほどの待ち時間があった。隣りホームの東海道線下りの電車の待ち時間は3分ほど、鎌倉まで、途中戸塚で横須賀線に乗り換えれば、今行った列車に乗れると思った。
 長い15両の小田原行きの電車は少し混雑していた。最後の夏休みの土曜日ということもあって、家族連れの姿が眼についた。小田原までの列車を昔湘南電車と称していたことを思い出した。
 川崎駅を過ぎて、乗降で空いた対面シートの通路側の席に座った。窓側に対面して老夫婦がいた。彼らは東京郊外の流れいく風景を見ていた。眼が合うと老婆が笑った。
「東京は暑いですね」
 口調に独特なアクセントがあった。老婆は脇に置いたバックを引き寄せ、僕にもっとゆったりと座れと眼で言った。僕は会釈をした。首に木綿の手ぬぐいを巻いて汗を押さえている。懐かしい出で立ち。僕は老婆の人懐っこい笑顔に引き寄せられるように訊ねた。
「これからどこへ?」
 老婆は微笑んだ。
「いえ、帰るんですわ。ねえ、とうさん」
 老婆がそう答えると、前に座る老人に声をかけた。老人は手縫いで汗を拭うと大きな声でケラケラと笑った。歯がないことが可笑しかった。少し薄汚れた白いTシャツが工場街を縫う電車にふさわしいと思えた。
「どこまで帰るのですか?」
 僕が訊ねた。
「高槻まで」
 そう言うと老婆が満面の笑みをこぼした。
「大阪ですわ」
 老人が続けた。
 僕が驚いた表情を見せると、老婆が言った。
「各駅停車で大阪まで帰るんです。青春18切符だと2000円で帰れるんですわ」
「小田原まで行って、そこでまた乗り換えて」
 老人がその先の道行きを楽しむように言った。
「5枚綴りですから、二人で往復しても一枚あまる、お得です」
「でもせっかく節約しても孫にねだられて、ついつい買ってしまうから同じ」
 ボケとツッコミ、大阪の漫才のような二人の掛け合いは聞いていて楽しかった。狛江に住む娘(といっても50歳を過ぎているという)に一年に数回会いにきていると言う。今回の東京は2日間と聞いてまたまた驚いた。道中に約2日かけているのだ。二人の今回東京滞在の最大の目的は保険会社招待の東儀秀樹のコンサートだったという。孫の分もと無理言って3枚もらったと言う。買ったら一枚7000円だと笑った。
「東儀を見て自分も笛習おうと思いましたわ」
 と、老人が言う。
「またまた音楽センスなんてないもないくせに」
 と老婆は言う。そして僕の顔を見て続けた。
「何しろ軍国少年でしたからね。ラッパしか聴いたことない」
「そんなことあらへん。横笛は私だって吹ける」
「また口ばっか」
 老婆が少し怒ったような口調になった。
「これから何時間もたいへんですね」僕が話を変えた。
「今回は行きは中央線を回ってきたから12時間かかえりました。外国ならエーゲ海にいけまっせ」
 と老人がその酔狂に答える。
「若い頃は父さんは遊び人でどこへでも行きました」
 と、老婆。脇に置いた杖を手に言葉を続ける。
「でもこの歳になると、リューマチやら神経痛やら、ダメですわ」
「だったら、座っていると言ってもこの席で8時間はつらいでしょう」
 実際この列車は通勤用の車両で、シートは固く、幅も狭かった。なによりトイレもなかった。
「買い出しの列車を思えば、別に急ぐ旅でもないし」
 列車は戸塚駅に入っていった。次に列車の時間調整のため3分間の待ち合わせがあるという。僕は弁当のおかずにと、特製シュウマイを駅ホームで急いで買って窓越しに渡した。その時かさかさの老婆の手に触れた。二人は恐縮した。
「お父さん、何かお返しを」
 老婆が言った。すると老人は棚にあげた自分たちの荷物を見あげた。驚いたことに、小さなバック一つがちょこんと乗っていた。
「荷物はこれだけですか?」
 僕が訊ねた。なにしろ僕の荷物と同じくらい。
「そうです」
 二人は頷いた。そして続けた。「別におしゃれせんといいですから」
 その言葉はなにやら誇らしげに僕には聞こえた。
「旅ですね」
 僕が言った。
「青春79歳切符と青春72歳切符です」
 そう答えると二人はいっそう大きな声で笑った。そして列車がホームを滑り出るまで手を振ってくれた。まるで両親の帰郷の見送りのようだった。旅の達人に対してかなわぬ思いからか、僕は急に照れくさくなってその場を立ち去った。