旅する病

曖昧になっていく旅の定義

フリーマン
 私が最近読んだのは、村上春樹が神戸散策をした時の文章です。でも彼がそこで表現していたのは散策自体ではなく、地震後の彼の精神面でした。角田さん、日本の旅行記には何らかの書き方はありますか。
角田
 私はあまり文学史を知らないので申し訳ないのですが、日本にも紀行文というジャンルはあって、昔だとヨーロッパに行くのに船や電車に乗って、とても長い時間がかかったわけですね。それでさっきおっしゃったような、自分の心理的なことがそこに重なってくる、という文化が紀行文にはあったと思います。ただ現代のように飛行機に乗って行く時代になると、今度はどこからどこまでが旅行かという問題になってくる。大陸を横断してどこかへ行けば旅行なのか、自分の家から隣町まで行くのもまた旅行なのではないかと。私たち書き手の中でも旅という定義が非常に多岐に渡って、どこに行くのか、何を経験するのかと、捉え方が非常に多くなってきたと思います。そこで今、私が個人的に興味があるのが、現代のようにTwitterや Facebookなどで「今ここにいる」ということがすぐ発信できる、リアルタイムで伝えられることで、作家の書く紀行文なり旅行エッセイというものが、何となくこれまでとは違う意味をもっていくような気がするということです。以前は旅をして、帰ってきてから、その旅がどういう影響をもったのかと考える暇があり、煮詰めて書くという「時差」があったと思うんですが、それが今は物書きじゃなくても書いてしまえる。パッとその時の印象を書いて、写真すら載せてしまえる。
ダイヤー
 まったくその通り。そのリアクションとして、イギリスでは特定ジャンルの旅行本がたくさん出ています。私は嫌悪していますがね。ホッピングとか手押し車で世界を歩いたとか、誰がどうみても馬鹿げた旅のかたちなんです。しかし矛盾したことに、私たちはこうしたものに慣れてきてしまい、親しみを感じるようになるわけです。こうした悪循環から抜け出すために、旅についての教科書が必要だと思いますね。ピコと私が称賛する旅行記にアニー・ディラードの『ティンカー・クリークのほとりで』があります。ずっと一カ所に滞在したことについて書いているのですが、そこには旅行記にあるべきすべての洞察力が見られます。
アイヤー
 旅とは基本的に変化のことだと思うんです。マイル数やアムトラックのことではありません。例えば、角田さんは『それでも三月は、また』というアンソロジーの中で、とても美しい、津波についての短篇を書かれていました。もう何度も読み返しましたが、私の住むカリフォルニアでは、不幸と喪失は非常に似た感覚ですが、素晴らしいことに角田さんの作品は、不幸と喪失が別のものだと教えてくれます。人はみな死に、それを拒む。でも不幸が結末である必要はないのです。そうしたことをカリフォルニアで私は一度も聞いたことがなかった。津波から一年後に来日した際、日本には喪失はしたけれど不幸では終わらせないような勢いがありました。私が旅をする理由はそれだと思います。異なる視点や考え方から世界をみるということです。