Traveler’s Appetite/旅人たちのおかえりごはん

その4<居酒屋ごはん>
角田光代(小説家)

 異国のひとり旅をするようになって、20年以上になる。最近はうまく時間がとれず、仕事がらみか、夫との休暇の旅ばかりだが、はじめて旅したときから一貫して守っているルールがある。旅先で、日本料理およびそれに準ずるものを食べない、というのが、それだ。準ずるもの、というのは、おもに中華料理である。
このルールを守っていると、帰国するころには、食べ慣れたごはんが恋しくなってくる。1週間の旅でも恋しいし、1カ月の旅だと、猛烈な恋しさだ。帰りの飛行機で、日本食か洋食かと訊かれたとき、つい日本食と言っていたのだが、この10年ほどは、それもやめて洋食を選ぶことにしている。旅先での日本ごはん禁止は、その土地のものを食べたいからだが、帰国便での日本食禁止は、猛烈な恋しさを機内食なんかで鎮めたくないのである。実際、鎮まってしまうのだから。
帰国が近づくと、帰ってすぐに何を食べようかなあと考える。帰りの飛行機のなかでは、ほぼそれしか考えていない。
しかしながら、日本食、といっても和食ばかりではない。そのことをいつも奇妙に思う。鮨や蕎麦ばかりが恋しくなるわけではないのである。焼きそばやお好み焼きのソース味、オムライスやナポリタンのケチャップ味、グラタンやドリアのホワイトソース&チーズ味、ハヤシライスのデミ味、ラーメンの醤油・塩・味噌・豚骨味、そりゃあもう、日本食は多岐にわたる。しかも、カレーやパスタや焼き肉といった、本場の味から大きくかけ離れた、和製料理も多い。インドでカレーばかり食べながら、日本のカレーが食べたい、とごくふつうに思う。
こんなことって、めずらしいのではないかと思う。私は旅先から帰ってくるたび、東京は不思議な町だとあらためて思う。私の暮らすちいさな町に、イタリア・スペイン・フランス・アメリカ・マレーシア・中国・韓国・タイ・フィリピン・メキシコ・インド・ネパール・日本・無国籍と、飲食店が存在する。こんな町はあまりない。都市部以外の町では、中国人は中国料理を、フランス人はフランス料理を、モロッコ人はモロッコ料理ばかりをふつうは食べているのだ。
当然、恋しくなる料理の幅も大きくなる。その旅で、私は自分が何を恋しく思うのか、さっぱり想像がつかない。
旅をはじめて2週間目くらいに、それは突然降ってくる。「あ、素麺」と思ったとたん、もうずーっと、帰るまで、素麺に取り憑かれる。帰ったらすぐ素麺を茹でて食べよう、とことあるごとに考えている。「キムチ」の場合もある。旅先が韓国だったらいいが、もちろん韓国の旅では違うものに取り憑かれるはずだ。「あの店のラーメン」と、店名こみで浮かぶこともある。唐揚げ。冷やし中華。卵かけごはん。ハンバーグ。餃子。アボカドに醤油をつけたもの。なんでもが、取り憑いてくる。
短い旅、1週間前後の旅だと、取り憑かれる前に帰国日がやってくる。こういうときは、帰っていちばん何が食べたいか、自分でもわかっていない。とりあえず、機内での日本食は断る。そうして帰国した日、夜ならば荷物を置いてすぐ、昼ならばどうでもいいもので腹をなだめて夕暮れを待ち、私は意気揚々と居酒屋に繰り出す。
居酒屋こそ、多岐にわたる日本のごはんがわんさとある。刺身もあればグラタンもある。天ぷらもあればたこ焼きもある。湯豆腐も海老フライもチヂミも、なーんでも。メニュウを見ると、ふつふつと食べたいものが浮かび上がり、それを思うまま注文する。なんでもおいしい。なんでもおいしいが、注文したなかに、自分でもびっくりするほど感動的においしいと思う料理が入っている。そうして、それに自分が飢えていたことに気づくのだ。このあいだの五日の旅のあと、居酒屋でそのように私を感動させたのは、自分でも意外なことに、焼きうどんであった。

角田光代 小説家。著書に『紙の月』『かなたの子』など小説のほかに、旅のエッセイ集や対談集など多数。最新刊に『私のなかの彼女』がある。