Traveler’s Appetite/旅人たちのおかえりごはん

その3<味噌汁>
内澤旬子(イラストルポライター)

 ついこの間のような気がするけれど、もう20年以上も経っている。その頃の私は空き家になった古い木造の下宿屋の留守番をやっていて、部屋数があったものだから、女友達を住まわせたりしていた。
そのときは2カ月近くイタリアから地中海を渡りエジプトやイエメンを旅していて、カサカサのパサパサの、血管の中までほこりだらけになって、舞い戻ってきた。重い荷物を成田から送ることもせずに、引きずるように横浜の丘の上の下宿屋に戻る。ガラガラ。ただいまー。引き戸をあける。昼間なので誰もいないのはわかっている。当時一緒に住んでいたのは、女の子2人。冷蔵庫に食べるもの、あるかしらん。台所に行くと、ガス台に鍋がひとつ。ふたを開けると、大根の味噌汁ではないか。昨晩の残りだ。ご飯を炊く時間も惜しく、そのまま暖めながら、お玉でひとまぜすると、煮干がぷかりぷかりと浮いてる。あ、Sが作ったのか。韓国人留学生のSに味噌汁の作り方を教えたのは、私だ。ただ、そのときに煮干を1匹取り忘れたまま野菜と味噌を入れちゃったんである。Sはそのまま味噌汁には煮干がそのまま入っているものとして覚えてしまった。ちゃんと訂正しなくちゃと思ったまま、忘れていた。
しかしこの際そんなことはどうでもいい。煮立てる直前で火を止めて、椀によそって、ひとくちすする。
う、う、うまい。身体全体に染み渡る魚介出汁と味噌の味。背髄の芯から緩んでゆく。思わず2杯目をよそった。あれ以来、帰国する度に味噌汁を作る。でもSが作ったちょっとくたびれた味は、なかなか出ない。

内澤旬子 ノンフィクション、エッセイ、イラストルポを手がける。
著書に『身体のいいなり』『飼い喰い 三匹の豚とわたし』など多数。最新刊に『捨てる女』がある。