Traveler’s Appetite/旅人たちのおかえりごはん

その2<ジャムパン>
角幡唯介(探検家)

 北極の雪氷を長く歩いていた時、食べたくて食べたくてたまらないものがあった。
ジャムパンである。
焼肉でもとんかつでもしゃぶしゃぶでもない。なぜか私はジャムパンを食べたくてたまらなかった。普段、家でジャムパンを食べることなどまずないし、自宅の冷蔵庫の中にもジャムは存在しない。ジャムが好きか嫌いか答えろと訊かれると嫌いですと答えかねないほど、普段の私はジャムに関心がない。それなのに、なぜ、あの時、私はジャムパンが食べたかったのだろう。それもできればベリー系、ラズベリーかブルーベリージャムが望ましかった。
というわけで、60日間も氷の世界をうろつき飢え切っていた私は、人間世界に戻ってくるとすぐに村の総合食料品店に足をはこび、食パンとベリー系のジャムを大量購入した。それから10日間、ホテルのベッドでジャムパンが与えてくれる悦楽に浸りきった私は、再び村を出発して500キロ以上に及ぶツンドラ無人地帯の徒歩旅行に出発した時もついつい食パンとジャムを可能なかぎり荷物の中に詰めこんでいた。
しかしパンとジャムなどという探検の食料としては非常に非効率的な食材がいつまでも続くわけがない。1週間かそこらで切れてしまった。その最後の一辺を食べた時の喪失感、悲哀、絶望。信じがたいことに、これから少なくとも1カ月はジャムパンを食べられないのだ。
それから私は湿地帯で靴を濡らし、大河をボートで横断して、30日以上にわたりツンドラ地帯を練り歩いたが、その間、頭にあったのは、村に着いたら絶対にジャムパンを腹いっぱい食べてやるという一念だった。ジャムパン、ジャムパン、できればラズベリーのジャムパンが望ましい……。恐らく目は血走り、呪文のような独り言をつぶやいていたことだろう。
ところが不思議なものである。目的地の村に着き、100日以上にわたる旅が終わりをつげた途端、怨念のように私の頭に憑依していたジャムパンへの欲望はきれいさっぱりなくなってしまった。全然食べたくないし、それどころか思い出すことさえない。村で最初にしたことは、ジャムとパンを買うことではなく、バーに行ってビールを注文し、ステーキを食べることだった。
それから2年半、ジャムパンを食べたいと思ったことはないし、下手をするとあれから口にしていないかもしれない。

角幡唯介 ノンフィクション作家、探検家。
著書に『アグルーカの行方』『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』など多数。現在グリーンランドを探検中。