絵:黒田征太郎

1939年生まれ。69年長友啓典と共同でK2を設立。イラストレーターとしてポスターや挿し絵で数々の賞を受賞するとともに、壁画制作、ライブペインティングなど幅広いアーティスト活動を展開。www.k-3.co.jp

文:新井敏記

1954年生まれ。85年「スイッチ」創刊、04年「コヨーテ」創刊。著書『人、旅に出る』(講談社)、『モンタナ急行の乗客』(新潮社)。近著として、『SWITCH STORIES 彼らがいた場所』(新潮文庫)、『鏡の荒野』『夏の水先案内人』(スイッチ・パブリッシング)

再訪 野坂昭如 第1回「沖縄へ行こう」

Essay vol.05

再訪 野坂昭如 第1回「沖縄へ行こう」


「沖縄に行けるといいですね」
 何度か野坂昭如邸に通うと夫人がぼそっと独り言のように呟いた。「また行けるといい」
 野坂が選挙に出た際に日本全国を一緒に駆け巡った時のことを黒田征太郎が話していたら、傍らの夫人から口をついて出た言葉だった。

「最近、野坂さんとどのように出会ったのか考えたことがあったのです」黒田は野坂に声をかける。
「初めてお会いした時のことを鮮明に覚えています。けっして忘れません。銀座の『アラスカ』で一緒にビールを呑みました」
「6階、二人でビールを吞んだ」
 野坂はたどたどしく答えた。「アラスカ」が6階にあったと言っている。
「その後は?」夫人が野坂に訊ねた。
「『マリ』」野坂が答える。

「黒田さんの印象はどうだった?」と夫人がさらに野坂に訊ねる。
「怖かった、怖かった」と念を押すように彼が答えた。
「それは僕の方ですよ」黒田が笑顔で否定していく。
「身体が大きく痩せていた」野坂が言う。今日は驚くほど饒舌だった。
「野坂さんとはよく旅をしました」
「パパ?」
「覚えていない」と夫人の問いかけを野坂は打ち消すように答えた。

「生涯に二度選挙応援をした。一度は野坂さん、二度目は喜納昌吉。野坂さんの選挙の時に菅原文太さんが応援演説に来られた。東京は銀座の和光前での演説の途中で鳩が一羽落ちてきた。瀕死で放っとくわけにもいかず車に乗せていたが、谷中で死んだんです。草原に埋めてあげた。何か繋がっている。『戦争童話集』でも文太さんに助けてもらった。ご長男を亡くされてしばらく離れていたが、最近ようやくテレビでお見かけしました。沖縄地上戦でガマにたった一人取り残されるお爺さんの役でした」
 黒田のその言葉に反応したのが冒頭の「沖縄へ」という夫人の声だった。

「海があれほど好きな人なのに沖縄の海を見て怖いと言った」夫人が言った。
「自分がお連れします」黒田が答えた。
「泳ぎもあなた上手じゃないのに海好き。米子の荒海でも泳いでいたじゃない」
「いろいろな海にご一緒し野坂さんと泳ぎました。今年の夏行きましょう」
 黒田は何度もその言葉を繰りかえした。
「歌も『われは海の子』が大好きでね」夫人が言った。
「約束してください。海に行きましょう」
「頑張る」
 みなの声にただ一言、野坂は答えた。「頑張る」と言った声はかすれていたが、それは凛とした張りのあるいい声だった。

 果たせぬ約束は来年に繋がる。「沖縄に行こう」黒田が笑顔で答えた。雲が浮かんだ。沖縄で「忘れてはイケナイ物語り」の再興。ウミガメにまた会えるだろうか。
「早く病気を直して。今なら戻れるのよ。急がないといけない」夫人が言う。
「はい」
「何でもはい、卑屈になった時の一つの手なんです」
「はい」
 そのきっぱりとした野坂の答えは、昔の人の智慧なのかもしれない。

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