絵:黒田征太郎

1939年生まれ。69年長友啓典と共同でK2を設立。イラストレーターとしてポスターや挿し絵で数々の賞を受賞するとともに、壁画制作、ライブペインティングなど幅広いアーティスト活動を展開。www.k-3.co.jp

文:新井敏記

1954年生まれ。85年「スイッチ」創刊、04年「コヨーテ」創刊。著書『人、旅に出る』(講談社)、『モンタナ急行の乗客』(新潮社)。近著として、『SWITCH STORIES 彼らがいた場所』(新潮文庫)、『鏡の荒野』『夏の水先案内人』(スイッチ・パブリッシング)

童話「月森の使者」

Essay vol.04

童話「月森の使者」

2
 坂道の途中、オリーブの木が植えられた小さな花壇に「月森」の看板が見える。入り口のガラス戸には白い麻のれんが深くかかっているのは定休日の記し。のれんをくぐるように入り口のガラス戸を引くと懐かしい香りがした。店の真ん中を仕切るやや高いテーブルと壁に面したテーブルに本が整然と並べられている。このどこかで嗅いだことのある香りは、古書の匂いかもしれないと思った。柔らかな日差しが後景にした「月森」の店主と挨拶を交わす。彼女の名は河野美香さん。岸田劉生の麗子像のようなおかっぱの髪の毛が印象的だった。
「こんにちは」
 という声が優しい。
 店内を見渡すと、壁に添うカウンターと、小さなテーブルが三つ、各々赤い皮の二脚のイスが美しい。床のコンクリートはタタキのように墨色に塗られて、この店の落ち着きを醸し出している。カウンター上部の波を打ったガラスの窓は引き窓と固定の窓と二重になっている。窓枠は近くの家が壊される際に譲り受けたもの。気づくと天井が高いのも空間をゆったりと見せている。この広さと内装はたった一人でまかなうために考え抜かれた「美」だと思った。
 河野さんの完璧で優雅な孤独を思った。
 端のテーブルに飲みかけのコーヒーがあった。店主はぼくたちの到着を待ってくれたのだ。さっそくホットケーキを浅煎りのブレンドコーヒーとともに注文する。
「ホットケーキは一枚? 二枚?」
 笑顔で訊ねられたので思わず「二枚」を選択する。少し無粋だったかもしれないと後で後悔をする。河野さんは店の奥のキッチンに入ると、早速作業に取りかかる。入り口脇の大きな窓には坂道を行き交う人の様子が映っていく。坂道を上がったり下ったり、街は生きている。僕は本の陳列に目をやる。作家の書斎を覗くような楽しみ、この世界に呼応するように江國香織、平松洋子、松浦弥太郎の本がある。どの本の装丁も美しいのは河野さんの趣味なのだろう。小気味よく生地を練る音が聴こえてくる。やや高くなったキッチンカウンターから上半身を覗かせた河野さんの姿勢は凛として見えた。手首を返さないで上半身の力を腕に伝えている。おかっぱが規則正しく揺れている。
「なぜ『月森』という名前にしたのですか?」僕が問いかける。
「おかしいですか?」
「いえ、なぜ『月』となぜ『森』なのかと」
 僕は続ける。「この辺りの土地の名前ですか?」
「いえ」河野さんは言う。
「宮澤賢治がお好きですか?」
「なぜですか?」河野さんが問い返す。
「宮澤賢治の童話にでもありそうな名です」
 そう僕が答えると彼女は微笑みながら、「ごめんなさい。生地を作るのに集中したいから」と彼女は小さく何度も「ごめんなさい」と答えた。「いえ、こちらの方こそ」と謝る。さらさらと音は勢いを増して、彼女はホットケーキ作りに集中していく。僕は再び本棚に目をやる。
 背の高い棚に大江健三郎の『静かな生活』が特別に面だしされて飾られていた。好きな本なのだろうか、大江さんとの思い出がいくつも脳裏に浮かんでくる。大江光くんが描かれた表紙を眺める。小さな店内に響き渡るのは生地をかき回す音。かすかに鉱石ラジオから音楽が聴こえてきた。キッチンの中からだった。時間を惜しむのではないことを僕は確かめて『静かな生活』の頁を開いていく。大江さんの長いインタビューの後、出会った記念にと僕の名前が登場人物の一人として記された短編集だった。名前が使われたことは光栄だが、その人物の性格はよくなかった。主人公である無垢な娘に悪いことをする人物として僕がいる。だからその本は苦い思い出になっている。
「出会った記念に僕はあなたの名前を僕の小説につけました」と大江健三郎さんは誇ったように僕に伝えてくれた。喜び勇んで本を読むと、僕は強姦男として登場する。作家はいじわるな人種だとその時に思った。
 マガジンラックの中に一冊「コヨーテ」の星野道夫の特集号を見つけると、気を取り直して『静かな生活』を置き「コヨーテ」を眺めると、かすかに微香をくすぐる甘い香りを漂ってくる。ホットケーキの焼き上がりだ。 「二枚、ですね」
 河野さんに念を押されたように僕は頷く。河野さんはテーブルに白い皿に乗せたホットケーキを差し出す。一枚は分厚く二枚重なった高さは十センチを超えている。周りはカットされて気泡が見えている。四角いバターが真ん中に置かれ、小さな白い容器にメイプルシロップが添えられている。

retweet