再訪 野坂昭如 第10回「未練なし」

Essay vol.14

再訪 野坂昭如 第10回「未練なし」


 寂聴と夫人のやりとりを聞いてなんだか野坂昭如は笑いを堪えるような顔を浮かべた。夫人の顔を見ると野坂の顔に似ていた。二人で一つ、失礼だがその言葉が浮かんだ。夫人は言う。
「このごろちょっと抓っては長生きしてねと野坂に声をかけている」
「この世に未練がある方ではない。どうでもいと思っている。野坂さんの長生きはみんなあなたのため。あなたがいるから」寂聴が夫人に言う。
「時々抓りも蹴りも必要だなと思います。辛い時はだらだらしている」
「プロポーズの言葉は何だったの?」
「たくさんの言葉を言っていましたが、可笑しいのは、水洗トイレに顔を突っ込んでイエスというまで流していると言うんです。何も水洗トイレに顔を突っ込んで溺れなくてもいいと思うんです」
「瀬戸内さんは覚えています?」夫人が寂聴に訊ねた。
「私は見合いだから、なかった」
「荒木さんは?」夫人が荒木に訊ねた。
「私は映像の人ですから、言葉はなかった」
「荒木さんは本当に素敵な人と出会ったね」寂聴が言った。
「でも旅に出ると手紙を書く。文面はなくて奈良に行った時に紅葉の葉を一枚拾って投函した。そういうキザなことをした。フェルメールの画集に赤ワインを垂らしたり」
「ロマンティック、涙が出てきた」
 寂聴が頷いて言った。
「還暦の時に三越の赤い褌を寂聴さんがくれた。大事にしています」
「だって荒木さんがエロティックなパンティを贈ってくれたじゃない。買いに行ったら売り子が変な顔をしていた」
「黒田さんは?」
「何、プロポーズの言葉? 結婚が嫌だった、一生あなたを愛しますなんて嫌だった」
「嘘、言えないよね」寂聴が笑った。「3回結婚した人は4回するよ」
「もういいです」
「夢があるのね」
 夫人は「ここからは酒がいいでしょう」と皆に奨めた。しかし荒木経惟も黒田征太郎も瀬戸内寂聴も今日は一滴も酒は呑まなかった。もちろん野坂昭如も。みんないつまでもこの日を覚えておきたかったのかもしれない。
「いい天気」寂聴が外を見やるとまた微笑んだ。
 荒木は野坂の顔を見た。野坂は何も答えなかった。ただ小さく頷いた。相貌は赤椿の若々しく、沈思黙考する哲学者だった。手の平に差した陽は、先ほどにくらべて流れていた。瀬戸内寂聴が話を訊き、荒木経惟が写真を撮り、黒田征太郎が絵を描く間、天使のようにゆらゆらと野坂昭如の指先がずっと震えていた。何かこの時間をめぐって書き物をしているような手だった。"生涯小説家"、この言葉がふと浮かんだ。

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